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そのとき僕は、「思えば、不思議だよなあ」と思っていた。
2010年11月に僕らがUST中継した坂本龍一「Playing the Piano North America Tour 2010」からわずか2ヶ月後の1月9日、僕らは韓国にいた。
あの北米ツアーの途中に、ふとしたきっかけで出たアイディア、それが「来年の韓国公演も中継しちゃう?」ってことだった。
バンクーバーのバーで教授と一緒に食事をしながら、冗談半分でちょこっとだけ話していた「アイディア」が、年末に近づくにつれ、やがて大きな「うねり」へと変わっていく。後日、来日した教授と都内某所で秘密の打ち合わせを重ねるうちに、人が人を呼び、北米のときにはわずか2人だった仲間が、数十人へと育っていく。
・・・ああ、本当にこのままだと、韓国公演も中継しちゃうのかもしれない。そしたら面白いなあ!
そして2011年1月9日、僕らのプロジェクトは「サカモト・ソーシャル・プロジェクト(通称、スクムトゥス)」という名前で実行されることになる。
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2010年12月11日に世田谷ものづくり学校(デジタルステージ)で行なわれたキックオフミーティングの様子。
各専門家やボランティアが坂本龍一氏を囲み、各自できることを持ち寄って企画を練っていった。
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その韓国の公演の最中に、僕は思った。
数万人の人が、日本中、世界中のあちこちで、こんなに教授の演奏に、音に、耳を澄ませている、この不思議。
ある人は、ひとりで。ある人は家族と、ある人は職場で同僚と、ある人は山手線の中で、病院で、学校の階段の踊り場で、
屋上のベンチに座りながら、公園で子守りをしながら、イヤホンを片方だけ着けて子供の声も聞こえるように、こっそりと。
わずか1日のイベントなのに、20万人以上が参加し、さらに440カ所以上でのパブリックヴューイング。
Ustreamの統計上には出て来ないそうした「有志による会場」で見ていた人たちをいれると、その何倍にもなる人たちがそこに集まっていた。
タイムラインは滝のように流れ、なぜだか分からないけど、そこにいた多くの人が「新しい時代の夜明け」を感じていた。
言ってしまえば、いつもどおりのピアノコンサートだったはずなのに、ネットを通じてこんなにたくさんの人が集まっているという、この不思議。
そしてそこからピアノコンサート以上の「何か」を感じているという、この不思議。
チケットを買い、コンサートホールにまで足を運んだ人たちが、耳を澄ませるのは分かる。
自分で教授の演奏に何かを求めていると最初から自分で気づいた人たちが、コンサートホールには集まるのだから。
でも、たまたま「ネットライブやるらしいよ」という「情報と出会った」だけの人たちが、これほどまでに耳を澄ませている理由は、一体なんだろう?
タダだから?珍しいから?
それもちょっとはあるかもしれないけど、そこが本質じゃないことははっきりと分かっている。
みんなが集中している、その理由。
何に耳を傾けて、何を見つけようとしているのだろう? 何を、探してるのだろう?
そう・・・「新しい時代の夜明け」を感じる、ここは、そういう「場」なのだ。
みんな、ついさっきまで、普段どおりの一日のはずだった。
誰かとご飯を食べたり、会社の同僚と隣り合わせで無言でキーボードを打っていたり。
病院の食堂もいつもの通りの風景で、お見舞いの人たちが座って休んでいたり、ただ窓際で外の駐車場を眺めていたり。
電車の中で聴く音楽も、何かのプレイリストをなんとなく選んでいたはずだ。
・・・でも、今はみんなここにいる。
インターネットを通じて、ツイッターを通じて、みんなが同じ場を共有している。
そして教授のピアノが大切なものへと変わり、その曲は「思い出」になっていった。
みんなと過ごしたあの時間、あのちょっとくすんだ映像の断片、教授の指先、
流れ行くタイムラインの言葉の濁流の中に見つけた印象深いひとこと。友達のアイコンを見つけた、あの瞬間。
あのネットライブを見ていた場所、空気、匂い、空の色。それらすべての記憶が、大切な思い出に変わっていった。
音楽が音楽としてだけではなく、思い出の誘発へと変わった瞬間。
みんなで一緒に体験した、という体験。
あのとき、僕たちは何を見つけたんだろう?
音楽を通じて、何を探そうとしていたんだろう。なぜ、何かを探そうと、心の底で思ったんだろう。
そして、なぜ、心のどこかで少なからずそう思った人が多かったんだろう。
なぜ、そんな人たちが集まったんだろう。あるいはなぜ、集まった人たちが、そういう人たちに「変わった」んだろう。
僕らは音楽の中に含まれるもの、あるいは音楽を通じて、音楽ではない「何か」を、
でもきっと音楽を通じてしか手にとれない先にあった「何か」を、あの日に掴もうとしていた気がする。
そういう出来事として、対峙した僕ら。少なくとも僕にとっては、特別な出来事だった。
あの韓国公演を僕は個人的に振り返る。
僕にとって嬉しいのは、教授やその周辺の人たちと「次に何やろうか?」という「未来を共有できたこと」だ。
次に何をやるか。それは、次に何を中継するか、ということだけではない。
ソーシャルメディアという、何か新しいメディアがはじまろうとしていることへ強烈な興味。
そしてそのメディアは誰かから与えられるものではなく、それこそ100人いたら100種類のメディアを「それぞれが自分で築き上げるものなのだ」という確信がある。
そして、そこには未来がある。
そのことを、僕は教授と確信し合えたことが、最高に嬉しかった。
雑誌「SWITCH」で、漫画家の井上雄彦氏との韓国公演を振り返る対談の中で、教授はこう語っている。
「音楽をやっているぼくは、新しいメディアに強い興味と希望を持っています。
だって、新しいメディアが誕生するということは、僕らの音楽を伝えるための
新しいチャンネルができるということで、それは経路が増えるわけだから、嬉しいですよね」
僕は教授と一緒にそれを探していきたいと思っている。
なぜならば、あの公演でたくさんの音楽に関わる人たちが希望を見いだし、「この先に未来がある」と感じていた。
あの日、みんなで共感した「何か」とは、「ここに未来がある!」と感じたことだったのだ。
だったら、次はそれをカタチにしてみたい!!
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異ジャンルの人たちが集まり、プロジェクトが立ち上がった。さらに世界中からプロジェクトへの参加者を募るべく、
メッセージビデオがYouTubeで公開。すべてはツイッターとウェブ上で繋がっていった。このときの「ネコ耳ルック」も話題に。
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ソーシャルメディアが面白いのは、今まで違うフィールドで活動してきた者同士が一緒に手を取り合って、新しいものを作り出せるところにあると僕は思っている。
言わば、別々のジャンルのモノを掛け合わせて、新しいモノを生み出すような感覚だ。
例えば、音楽とソフトウェア。あるいは、音楽と小説。もしかしたら、映画とソフトウェアなんて組み合わせもあるかも知れない。
井上氏との対談の最後に教授は語る。
「今、欧米で最先端と言われる電子書籍を見てみると、ただ本の中身を移し替えたのではなく、
それは本でもあり映画でもあり音楽でもあり、かつコマーシャル性もあって、
もはやボーダーがはっきりしないというものがあります。(略)
大事なのはやはり、『その媒体にしかできないこと』を追求し、表現するということでしょうね。」
そう、そこにこそ未来があるんだ、と僕は思った。
こんな面白いチャレンジができる今の恵まれた環境と、出会いの数々に改めて驚く。
・・・ふと思う。
僕はもの凄い偶然の確率で、つながりたい人とつながれてるな、と。
そういう偶然の連続に対して生まれるのは、「感謝」という気持ちだ。
ん?何への感謝だろう?
分からないけど、僕は最近の出会いを振り返るとき、何故かそういう気持ちになる。
ありがとう。ほんとに。
二十歳になった頃からこの仕事をはじめて、何も分からないままに会社を始めて。
それからいろいろなことがあったし、もうダメだと思う夜も何度もあった。
人に裏切られたり、自分の心が折れたり、誰かを傷つけたり、お金に苦労したり、人間関係が壊れたり、悲しい眠れぬ日々が幾度もあった。
でも、モノづくりで何かの光が見えたとき、何かのカタチになったとき、そして何よりも、その作品で誰かが喜んでくれたとき、すべての苦労も悲しみも一瞬で消えた。
モノづくりをすること。表現をすること。カタチにすること。
僕にとって、なぜそれを続けるかというと、その一瞬の喜びのためだと言える。
もっと楽なことや、もっと効率よいことがあっても、その一瞬の笑顔や涙の輝きには代え難い。
それだけでも素晴らしいことなのに、今の時代が生み出そうとしている「ソーシャルメディア」というものは、違うジャンルのアーティストやクリエイターが、一緒にコラボレーションできる可能性を秘めている。
コラボレーションしてこそ生まれる「新しい場」と「新しい価値」に、僕はものすごい可能性を感じている。
モノづくりは孤独だ。
でも、今までは孤独に遠くから手を振り合うだけだった人たちが、ジャンルの枠を超え、手を取り合ってチャレンジしていけるのが、「ソーシャルメディア」というフィールドなんだと思う。
そう考えると、本当に、本当に楽しい時代が始まったんだなぁ!と嬉しくなる。
もっと平たく言うと、ソーシャルメディアとは、「自分メディア」だ。
今までは、表現をしたい人間が作品をつくり、そしてそれを誰かが運営するメディアに載せてもらっていた。
でもこれからは、もしかしたら音楽家が自分のメディアを持つ時代なのかも知れない。
あるいは、映像作家が自分のメディアを持つのかもしれない。あるいは、小説家が。
それはつまり、作品とメディアが別々のものなのではなく、「広めるところまでも作品の一部」になることや、今までにない複合的な作品が生まれることを意味するのだと思う。
もし、デジタルステージ、あるいは僕がこの先を考えるとしたら?
もしかしたらネットライブのアプリがあって、それを手にした人たちは、テレビやDVDとはまったく違った楽しみ方を手に入れるのかも知れない。
大事なことは何か?
それは、ソーシャルメディアっていうのは、誰かが考えて、「これがソーシャルメディアです!」と決めつけるものなんかじゃないってことだ。
大事なことは、今までは異ジャンルで一緒に組むようなことのなかった人たちが、意外な組み方をすることで、新しいメディアが無数に生まれていくということ。
それは絶対に楽しいことだし、そこから現時点では想像できないようなものが絶対に生まれるはずだ。
僕はそこにワクワクしている。心から。
そしてそうやってソーシャルメディアで、いろいろなアーティストやクリエイターが試行錯誤していくこと自体が、とても面白いことだと思う。
例えば、村上龍氏が小説「歌うクジラ」を書き、プログラマーの方と一緒に電子書籍をつくり、そこに坂本龍一氏が音楽を載せたように。
そういうことが、星の数ほど起きていく。
何度も言うけど、僕はそこに、心からワクワクしているんだ。
2011年3月10日 平野友康
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